周辺の歴史

 最近 世界遺産では「官営 富岡製糸場と近代遺産群」として製糸の歴史が話題を集めました。
 実は、当社があります豊橋にも、「蚕都豊橋」「玉糸王国」と呼ばれ栄えた歴史があります。
 大正時代には長野県岡山市についで2番目であり、製糸では全国の60%(商い時には80%)を誇り、取引所まで開設したほどでした。

 さて、この話をすると、どうしても一人の人物にたどり着きます。
 「小渕 志ち」群馬県南勢多郡石井村(現・前橋市富士見町石井)の出身で、1862年ごろから製糸所の工女として従事し、糸引き座繰り技術をマスターし、17歳で結婚します。
 しかし、その後 夫のDV(ドメスティックバイオレンス)に合い盲目の娘をもうけますが、15年後に耐えかねて玉繭商の中島徳次郎と駆け落ちをするのです。 (当時の女性には恋愛も離婚も自由がない時代。駆け落ちというのは世間の眼もかなり厳しく、お互い積み重ねたものや家族を捨てることになるのでかなりの決意がいったことでしょう。)
 そのころ小渕志ちは精神的にも病んでおり、行く当てもなく二人で各地を放浪していたのですが、その中で伊勢参りに行く道中に二川宿(現・愛知県豊橋市)に逗留したのだそうです。
 その時、小渕志ちに転機が訪れるのです。

逗留中の二川町にて
二川の人「どこからきなすった。」
志ち「上州です。」
二川の人「上州でしたら蚕から糸を引くのは当たり前でしょう。あなたできないかい。」
志ち「私はそれを仕事にしています。」     (※現代文でゴメンナサイ)


 …当時、この一帯は蚕を育て繭を作っても、その繭から糸を引く技術がなかったのです。
 そこで多くの地元の者が押し掛け、熱心に「この地に留まり製糸の技術を教えて貰えないか」と乞われて、この地で製糸業を始める事となるのです。

 ここでまた、苦難の連続なんですね。
 当時の日本の刑法(旧刑法)には【姦通罪】というものがありました。(イスラム教では今もあります。)
 その為、偽の戸籍で生活しておりました。
 そして二人を憐れんだ今の大岩寺の和尚(二村洞恩 和尚)が保証人になり、二人を住まわせるのです。
 しかし、やがてそれも見つかってしまい、二村和尚と中島徳次郎は獄中へ、二村和尚は獄死し、中島徳次郎は出所後にそのことを苦にして絶食して亡くなります。

 その後小渕志ちは、製糸場を営むのですが、しばらくはよそ者であること、罪人であることで周りの目も厳しく、まともな繭も集まらず当時くず繭とされた玉繭(二匹以上の蚕が作る一個の繭で、糸の絡みが不規則なため繰糸が困難で利用価値がないものとされていた)しか集まりませんでした。
 ですがやがてその玉繭から糸を取り出す方法を成功させることとなります。
 その後小渕志ちはその玉繭から糸を取る技術を基に、中島徳次郎の名から「徳」の字を取った、糸徳社を設立し、蚕都の基礎を築きます。

 しかし、小渕志ちが行っていたのは座繰り製糸であり、本格的な機械製糸は細谷製糸株式会社が愛知県で最初であるとされています。

 その後世界恐慌のあおりを受け、多くの企業は倒産、そして国策による規制、やがては太平洋戦争へと徐々に衰退していきます。
 昭和40~45年ごろまでには、まだこの地域でも細々とやっている中小・大手もまだ3社ほどありました。
 この後、この地域の養蚕業および蚕都豊橋は消滅することになるのです。

小渕志ち 像
糸徳工場跡
レンガ防火壁の跡
↑小渕志ち 像
441-3147 豊橋市大岩町火打坂19-3
↑糸徳工場跡
現在は二川地区市民館と窓口センターがある場所にあります
↑工場のレンガ防火壁の跡
441-3147豊橋市大岩町東郷内
地元でちょっと有名なかき氷屋「かわいや」さんの傍にあります

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